初恋と糞(ふん)

 会いたい人がたくさんいる。その中でも、会いたいけど連絡先がわからない初恋の人がいる。私が代わりにうんちを踏んであげた人。

 当時、愛児園に通っていた私には好きな女の子がいた。顔も名前ももう思い出せない。確か小学校に上がるときに一人だけ遠くに行ってしまい、それから会っていない。ただ、ぼんやりとした思い出が、ずっと頭に残っている。
 4、5歳くらいの頃、遠足で牧場を訪れた。いろいろな動物と遊んだり、ソフトクリームを食べたりした思い出がある。中でも強烈に覚えているのは、その牧場からの帰り道。バス停までの数百メートル、縦2列に並んで歩いていた。隣はその大好きな女の子だった。照れていたのかその子には話しかけず、前にいた仲のいい男友達とふざけながら歩いた。木の棒を拾っては振り回し、先生に怒られたりしたと思う。僕はそういう子だった。
 少し進むと、羊が放牧されている道に入った。無垢な園児たちは『ひつじさん、可愛いなー』なんて言いながらルンルンと進む。
 僕は気づいた、糞(ふん)が道にめちゃくちゃ転がっていることに。尋常じゃないほど。しかも、隣で歩いている好きな子の足元ばかりに。そんなうんちを気付かずに踏み続ける彼女に僕は声をかけた。「うんちいっぱいあるよ、こっち歩き」僕は、彼女と列を代わってあげた。なんて紳士なんだ。高校生の頃、当時の彼女に「ねえ、車道側に代わってあげるっていう考えはないわけ?」と叱られた男とは到底思えない。
 好きな子に「ありがとう」と感謝され僕は意気揚々とうんちを踏んで歩く。「大丈夫、大丈夫、よくうんち踏むし」なんて自慢にもならないことを誇らしげに言う。すると今度は、さっき代わってあげた列の方に糞が多くなってきた。「大丈夫?また代わるよ。」また代わってあげた。だがすぐに糞は彼女の歩きだした道に現れた。またまた代わった。代わったらまた糞は彼女側に移動した。またまたまた代わった、なんてことを十回ほど繰り返し、バス停についた。もう僕の足は、羊の糞だらけ。「大丈夫、畑の肥料にするから」なんて気の利いたことは言えなかったと思う。だって、すごく臭かったから。バスの中で「誰か漏らした!?」と騒ぎになるくらいに。
 あーあ、こんな臭くて汚い男なんか嫌われるなと落ち込んでいたら、突然チュっとほっぺにキスをしてくれた。その女の子が。びっくりした。ほんとにびっくりした。
 美化された記憶かもしれないが「ありがと、大好き」と言ってくれたと思う。たぶん。というか当時もはっきりその言葉は聞こえなかった。ドキドキしてたから。


 こんな甘い記憶だけが頭に残っている。ただ、名前も顔も覚えてない。もちろん連絡先なんて分かるわけがない。あーあ、彼女は覚えているだろうか、うんちと引き換えにキスしてくれたこと。
 あの、うんちキッス。いつかどこかで会えたなら、そんな話を笑いながらしたいものだ。

読書の思い出

 この自粛期間中150冊くらい本を買った。本棚に収まらなくなったので、床に山積みになっている。本の重さで床が抜けたという伝説がある井上ひさしには、まだ遠く及ばないが、それにしても邪魔だ。

 現代の東京のように、敷地面積が狭いなら高く積めばいいと、本を高層ビルのように細く高くひとつにまとめたが、すごく怖い。軽く手があたっただけで倒れてきそうだ。こんな耐震構造のない高層ビルの横では、うとうと寝ることもできない。仕方なく、安全な高さに分けたが、これでは高層ビルではなくて、団地だ。

 

 私が本を読みだしたのは、中3くらいからだったと思う。別に本を読むのが好きだったわけではない。実をいうと、今もたいして好きではない。尊敬している人が本をたくさん読むので、私も真似しようというくらいの感じだ。暇だから読むかという時もある。

 高校1年のとき、6限目の授業が終わり、帰りのホームルームが始まるまでの数分、本を読んでいたら、それを見ていた担任に大々的に褒められた。

「みんなが無駄におしゃべりしている間、じん(私の呼称)は本を読んで勉強してたよ。すごい偉い。みんなも見習いなさい。」

 泣きそうになった。もちろん嬉し泣きではない。そりゃ私だって、出来るならみんなと無駄におしゃべりがしたかった。その相手がいないからひとりで本を読んでいたのに。ベテランの先生になってくると、こういう繊細な思春期の気持ちが理解できなくなってくるのだろうか。それとも、理解したうえでイジってきたのだろうか。どちらにせよ、みんなは私の読書の内情を理解していた。その空気はビンビン伝わってくる。私は、とっさに読んでいた相田みつをの『生きていてよかった』を机にしまった。なにが“生きていてよかった”だ。この時ばかりは、相田みつをの詩を信じられなかった。

「アノネ がんばんなくてもいいからさ 具体的に 動くことだね」みつを

 教えてください。私はこの時、具体的にどう動けばよかったのですか?

新しい眼鏡を買った話

 今かけている眼鏡の度数が合わなくなってきたので新しい眼鏡を買いに出た。お昼時の太陽光はとても気持ちが良く、久しぶりの外出だったこともあり、なんでも許してしまうくらい穏やかな気分だった。

  近くの眼鏡屋を検索し、でてきたところに行こうと思ったのだが、クチコミがものすごく荒れていた。店員の態度が悪いとのことだったが、私はいま気分が良いし、そういう話を聞くと逆にどんな接客をされるのかワクワクするタイプの人間なので、なんの心配もなくその眼鏡屋に向かった。

  店に着き、いろいろと眼鏡を見て回り、すこしばかり冒険してみようかなと、レンズが真ん丸の眼鏡や、顔の3分の1がレンズで埋まるほど大きい眼鏡などをかけてみるが、まったく似合わない。こういうオシャレな眼鏡が似合うのは、たぶんオシャレな顔をしている人だけなのだろう。凡人には無理だ、と少し悲しくなったが、それよりもオシャレな眼鏡を試着しているタイミングで店員に話しかけられたことの方がよっぽど精神的にきた。

  最先端のAIが、おすすめの眼鏡を選んでくれるとのことだったが、私を哀川翔と勘違いしているのか、細くてとんがっている眼鏡しか紹介してくれなかった。仕方がないので、冒険するのはやめ、いまかけている眼鏡とほとんど同じ形のフレームに決めた。

  かなり若い男性の店員に声をかけると、在庫を確認しますと言って、奥の部屋に消えていった。思ったより長く、マイケルジャクソン2曲分くらい待たされたが、まだ気分は良かったので、別にどうとも思わなかった。そして、“こちらでよろしかったですか?”とだされた眼鏡が、色もフレームも私が選んだ眼鏡と全然違ったが、それでもまだムカつきはしなかった。「いえ、ちょっと違います。コレです。」と言うと、「あ、はい」とだけ言ってまた奥に消えていった。クチコミを書いていた人は、もうこの接客で怒っているんだろうなー、私は優しいなーなどと思っていたら、今度は比較的早く、ビートルズ1曲分くらいで出てきた。だが、その人は、さっきの彼ではなく別の男性だった。「お待たせしてすみません。」と、私の前にある引き出しから私が選んだ眼鏡を取り出した。“え、そこにあったんだ、じゃあさっきの人はなんだったんだろう”と少しムカついたが、口には出さず(顔にはでていたかもしれない)、「あ、ありがとうございます。」とお礼をいった。

  次に、視力を計ったのだが、これもなかなか苦戦した。はじめにだされた文字がもうすでに全然見えなかったのだ。こういう時、素直に「わかりません」と答えられる性格ならよかったのに、私はなぜかムキになって、見えない文字をほとんど勘で答えた。「い、こ、け」すると、「はーい、じゃあ次はコレですねー。」と、また一段と小さくなった文字が出てきた。いや、ここまでくるともう、文字だか、あの一部が欠けた円のやつ(ランドルト環というらしい)なのか、それともモニターについたゴミなのかの判断もつかない。というか、レベルを上げられたということは、さっきの問題に正解したという事なのだろうか?だとすると、それは勘が良かっただけであって、視力のお陰ではない。なんだか複雑な気分になりながら、このまま勘が当たってしまうと、度数が合わない眼鏡が出来てしまうと思い私は、「わかりません」と素直に答えた。なんか負けた気分だった。

 その後、かなり大きい文字に戻してもらって、勘を使わず答えられるようになったが、だんだん見えなくなってくると、お昼時の空腹に視力が影響を受けたのか、「は、ら、み」や「に、つ、け」などの食べ物の名称が出てくるようになった。それが当たっていたのかどうか分からないが、たぶん、それを言うたびに文字が大きくなっていったので間違っていたのだろう。でも、ふざけている訳ではないのだ。私は本気で文字を読み取ろうとしていた。ただ、「け、つ、げ」と答えると、「濁音は出てきません!」とかなり本気で怒られた。それは、私の間違いだったと反省した。だが、奥の部屋からこの様子をみていたさっきの彼が、吹き出して笑ったことに関しては、私はかなりムカついた。

ワルツでも踊ろうヨ

 

皮肉をむさぼり喰うクニの

カニバリズムのテンポに合わせて

ワルツでも踊りましょ


首のすわってないクニの

カニバリズムのテンポに合わせて

ワルツでも踊ろうか


冷たくなったジンミンの

うえでみんな踊ろうヨ

さあ、ワルツでも

踊ろうヨ